知識労働と肉体労働
6月22日の勉強会では、昔の労働組合とか労働者についての話から、最近の非正規社員や大企業のアウトソースという名目での下請けの多重構造について考えました。
そんななかで、知識労働と肉体労働についての気付きがありました。
ドラッカーの言う「知識労働者」と「肉体労働者」という和訳の表現より、「知識集約型労働者」と「労働集約型労働者」の方がしっくりくるように思います。
知識集型労働の成果は、何を事業とするかもふくめて青天井であり、無限の可能性と創造性に委ねられている。
一方で、労働集約型労働では、仕事は細かく刻まれて標準化されているので、労働力の投入に比例した成果となる。この作業を行う人は、労働主役型労働者であるが、この比例の角度上げて少ない労働投入でより大きな成果をあげるマネジメントができる人は「知識集約型労働者」といえる。
例えば寿司屋の場合、今後二極が進むと考えられる。
コロナ禍で三密を避けるか、徹底的な感染症対策により、回転ずしはDX化によりますます人の仕事を減らし収益を上げている事例がみられる。具体的な事例はまだ知らないが、おそらくその逆に限られた人数で感染症対策を行いながら富裕層向けによりパーソナルサービスを提供する寿司屋の需要もでてくるでしょう。コロナはなかなか終息する兆しなく、終息しても外食に対する考え方も大きく変化することが予想されます。結果として、特長のない中間層のポジションが無くなってしますのではないでしょうか。
エッセンシャルワークのようなきつい仕事はさらに人手不足になり、ある程度報酬も維持され、確実に残りますが、中途半端な知識集約型業務はDXによりそのポジションを失うことになるでしょう。すでに企業の事務職やいわゆるOLといような人は少なくなってきています。失業や出産やそのほかいたし方ない理由でキャリを中断してしまった場合は、経験や知識不問の単純作業で所得を得ることがあっても、それは一時的なものにすべきであって、できる限り早く自分が成長できる職に移れるような努力がますます必要な時代になる。
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